1066年、ハロルドの戴冠後に、まず弟トスティが反旗を起こした。トスティはイングランド南部を荒らしたあと、北のスコットランドに移り、ノルウェー王と組んで、再び攻勢をしかけた。一方、ギヨームは、配下のノルマンディー諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募って、南方から攻勢をしかけた。ハロルドは北方と南方から挟まれる形になった。
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この状況で、まず北方のトスティが攻勢をしかけた。ハロルドの軍は激戦の末にこれを撃破した(スタンフォード・ブリッジの戦い)のだが、疲弊した。そこへ南方からギヨームが攻勢をしかけた。イングランドに上陸し、優秀な騎馬や相手の戦術ミスなどでハロルドの軍を撃破した(ヘースティングスの戦い)。
ギヨームはさらに南部から北東部の各地に進撃した。南部のサクソン諸侯は、ハロルドの戦死後に若年のエドガーを擁立して抵抗したが、ギヨームの攻勢を受けて、ギヨームの王位を認めざるをえなくなった。ギヨームはウィリアム1世として即位した。
以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ギヨームはイングランドの統一を推進した。ノルマンディー式の封建制を取り入れて、(ヘースティングスの戦いなどで)戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官(シェリフ)を置いて、王の支配を全土に及ぼした。
緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルドの一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された(前述)。その後も、1070年にデーン人、スコットランド王などの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達は、(ロビン・フッドのモデルの一人といわれる)ヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。これ以降、イングランドは安定した。
エドガーはスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは後にスコットランド王マルカム3世と結婚した。2人の間の娘イーディス(マティルダ)は後にサクソン人とノルマン人の融和の証としてヘンリー1世と結婚することになる。
ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教、修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、イタリア人のランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2世の時代のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。
なお、ノルマン・コンクエストとは、ノルマン人の農民が大挙襲来して、サクソン人の農民が大挙追放されたことではない。サクソン人の領主が追放されて、ノルマン人の領主が取って代わっただけにすぎない。その意味で、ノルマン・コンクエストとは、(国民全体から見ればごく少数の)領主・貴族に限った征服だとも言える。当然ながら、民衆の中から古英語やイングランド文化が消滅したわけでもない。